12/27/2016

バラード2

前稿のバラードの楽譜は昔から持っているパデレフスキ版で、変色し補強したテープの跡が加わってボロボロ、、こちらは今年購入したエキエル版。

先日書いたバラード4番について、大曲と表現したのはもちろん演奏テクニックのことではなく精神性の高さを指す。指がよく回る若い時代の方がうまく弾けるとは思わない。人生経験を積んで枯れた人がここにまた戻ってきたときに見えることも多いと思う(かっこよく枯れたいですね。)指が回らなくなったらゆっくりじっくり深く、弾いたらいいと思う。若い頃にあまり深く考えずにこのような崇高な曲を弾いていたことを振り返るとちょっぴり恥ずかしくもある、、とは言え今も人生経験足りないしまだまだなのだけど、、


「日本人が早くからショパンを特に愛するようになったのは、当然だと思う。(中略) 私たち日本人には、全体の一見単調な反復の中に、細部の微妙な変化、洗練、巧緻といったものを、かぎつけ、見出し、それを享受する能力が発達しているというのが、私の考えである。そういう私たちが、ショパンの音楽のエッセンスをききのがすのは考えられないことだし、それ以上に、ヨーロッパから渡来した音楽のいろいろな種類のなかで、ショパンの芸術に、自分たちのそれに非常に近いものをみたのは、当然だったと思う。ヴァーグナーの巨大な歌劇にくらべて、ショパンのピアノ曲は小さい。しかし、だからといって、これはけっしてマイナーアートというわけではないのだ、ということを指摘したのは、フランスの文学者アンドレ・ジッドだけれども、日本人は、そういうことは前から知っていた。和歌も、俳句も、日本人には、天地のすべてと自分の心の深淵のすべてをうつし入れるのに、小さすぎるためしのなかった容れものであった。」ー吉田秀和
↑このジッドの本も持ってる〜